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学報告

留学先で見たこと・聞いたこと

平成10年入局 小川 武則


ボス(中央と)
はじめに

2010年10月から2012年3月までの1年半、ボルチモアのJohns Hopkins University(JHU), Division of Head and Neck Cancer Research(Prof. Sidransky’s Lab)に留学させていただきました。不安一杯だった留学前から現在までの主観たっぷりの経験談です。

不安一杯の出国前

どの先生方も留学前には、財政面、英語の壁、治安といった大きな不安と新生活、研究に対する(少しの?)期待があるのだと思います。我が家も、子供、住宅ローンあり、アメリカからは無給、留学時13年目(ちょっと遅い留学)といった数々の悪条件。英語は全くできず、直前に韓国で行われた国際学会ではじめてポスター発表し、英語でのコミュニケーション能力のあまりの欠如に自分でも愕然とし、あわてて英会話教室に行く始末(当然ビギナーコース)。さらに留学先はアメリカでも治安が悪いことで有名なボルチモア、留学直前にはJohns Hopkins病院で発砲事件(医師負傷)の知らせまであり、医局の先生に“生きて帰ってくることだけが目標です”と挨拶した不安一杯の出国でした。

ただ、小林教授のご配慮により現職助教で派遣してくださったこと、直前にJSPSの助成金(組織的若手研究者派遣プログラム)を頂き、さらに記録的な円高。よって財政面は少し改善。さらに小林教授からは“論文は気にしなくていいから見聞を広め、人脈を作ることだけ考えなさい”といったありがたい言葉。少し肩の荷は下りましたが、さて、、、

研究室紹介


講演に来られた
DNA構造のWatson先生と
JHUは、私の留学中にもノーベル賞を受賞するなど有数な研究機関でありながら、病院も21年連続全米No1にランキングされるなど(科別で耳鼻科もNo1)、診療、研究、教育の両立をうたう見本となるような大学でした。研究室の主宰者Sidransky教授は、頭頸部癌を中心に各種癌における新規診断、治療法に繋がる研究をテーマとし、メチル化や唾液、血清を用いた癌スクリーニング法のほか沢山のテーマを持っていますが、トランスレーショナルリサーチも高いレベルで行っていることは非常に勉強になりました。ところが、そのbig bossは、会社経営まで乗り出した多数の肩書きをもつスーパーマン。ラボには2ヵ月に数日だけしかいなく、なかなかお目通りもかなわない。留学最初に“こーにちは”と日本語でいわれたのと、数回のミーティング、最後の最後に“Good Job”と数えるほどしか話せませんでした。でも全体では、Principal investigator (PI)が11名、Instructor4名、Technician 3名、ポスドク17名(私の渡米時)の大所帯で、耳鼻科のMDであっても研究日が定時にあり、研究環境としてはトップレベルであることは間違いないラボです。世界中からポスドクも集まり、集合写真で世界地図みたいだねと満足げにbossが言っていたことが懐かしく思い出されます。

そして私の研究生活


私のプレゼンに頭を抱える?ボス
日本人の多くは、日本語では多弁でも英語になると急に恥ずかしがり屋になってしまうもの。

私は、分子標的薬耐性メチル化遺伝子の検索などテーマはあるものの、日本と比べて劇的な研究テーマの発展はないなあと思っていた3ヶ月を過ごしました。しかし、数度のつたない英語でのプレゼンにより、無給で研究手伝ってくれる日本人と思われたのか、最終的にはラボ内の多くのPI、instructorと共に様々なプロジェクトに関する実験活動を行わせていただきました。また、夏には多くのsummer studentを受け入れ、私の下にもundergraduateや高校生がつき、学生指導は非常に英会話勉強になりました(学生が私の下で勉強になったかは不明)。BossはJewish、直接指導はChineseでしたが、暗算得意なインド系、英語はしゃべれないけど真面目な日系、週末音楽ガンガンかけるのは中南米と多国籍ラボならではの感じもあり、非常に雰囲気の良いラボで研究できたのは幸いでした。日本人も3名おり、適度に日本語でストレス発散もできました。(日本語で不平不満を話していたら、日本留学経験ある外国人もいて、聞かれたか?とあせったこともあります。)

英語は最後まで苦労しましたが、ほとんどの日本人ポスドクは英会話に苦労すること、ここは英語を学ぶラボじゃないのよといった暖かい励ましもあり、英会話で下に見られることもなく(あたりまえか?)、むしろ今までの臨床経験で頼りにされることすらあり、遅い時期の留学も悪くは無いかな?といった感じでした。ボルチモアは治安の関係上、10時-20時の実験生活、土日は実験しこんで家族サービスといった毎日を過ごしましたが、これでも勤勉な日本人と思われ、大学院時代から比べればこんなに楽して良いの?といった感すらありました。データが出てればもっと休めたかも?

最後に留学で得たもの失ったもの


ラボのみんなと
今これから留学生活が始まるとしたらどんなに幸せだろうと思います。生きて帰って来られたばかりか、ラボのPIやinstructor達とも仲良くなれ、帰国後国際学会時に旧友と会った時には、手術見学はじめ共同研究についての話も出来、むしろ留学中より歓迎してくれてない?といった感がありました。財政赤字も許容範囲(さすがに黒字ではないが)、英語も再渡米時に機内急患対応のおまけ付(これは英語ではなくただ度胸がついただけ?)。さらに子供はあっという間に英語の生活にもなれ、日本人だけで遊んでいても誰かが英語で話し出すとみんな英語で遊んでいた頃が懐かしく思い出されます。子供の英語を親は聞き取れず“何話しているのだろう?”と思っていると、現地のnative speakerにお前の子供の英語は完璧だ!なんて言われるのはどなたも経験ある留学あるあるでしょう。

失ったものは、これまた留学あるあるのアメリカ生活体重増(増えたのだから得たものか?)。現地では、これでも全く目立たない程度で、アメリカの服も全く問題なかったのが、帰国後持って行かなかった今までの服が着られなくなったことぐらいでしょうか?